日本酒をあれこれ買い求め呑み比べる私の心の奥底には「ああ…これこそ求めていた味だ!もうこれ以外の酒を呑むことはないだろう」的に、究極の一本と巡り会えるのではないか、との期待がある。
ところでこうした期待を、異性に対して抱く時期ってありますよね。「貴女こそが理想の女性です!」って思える女性がどこかにいて、彼女と巡り会ってはじめて自分は結婚するんだ、と考える時期。
ここで唐突に、内田樹のブログから結婚について書かれた一説を引用します。
「異性が10人いたらそのうちの3人とは『結婚できそう』と思える」のが成人の条件であり、「10人いたら5人とはオッケー」というのが「成熟した大人」であり、「10人いたら、7人はいけます」というのが「達人」である。Someday my prince will come というようなお題目を唱えているうちは子どもである。
つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。
何でも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる
最後の「誰とでも友だちになれる」は「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。こういうと「ばかばかしい」と笑う人がいる。それは短見というものである。
よく考えて欲しい。
どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「何でも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。
「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。
同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに
私たちは取り囲まれているからである。
「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。
誰とでも結婚できるはずがないではないか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。
そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。
「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。
どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。
だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。
それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。
自分がその相手を選んだことによって、潜在可能性を豊かに開花させ、幸福な人生を送ったという事実によって「自分の判断の正しさ」を事後的に証明するのである。
配偶者を選ぶとき、それが「正しい選択である」ことを今ここで証明してみせろと言われて答えられる人はどこにもいない。
それが「正しい選択」であったことは自分が現に幸福になることによってこれから証明するのである。
内田樹の研究室「学院標語と結婚の条件」(2009年4月9日)より
なぜ日本酒がタイトルの記事にこんな引用をするかというと、浦霞禅をおよそ10年ぶりに呑んだ瞬間「運命の人云々考えてもしかたないですよ?たとえばこの酒を『晩酌の友』とずーーーっと決めてしまって、その日本酒道的正しさを事後的に証明する、って人生も”あり”でしょ?」と耳元で囁かれてしまったからなのである。
上立ち香、含み香とも涼やかなミネラルの味わいを核に決して尖らず、果実様(あえて言うならメロン)の香りを口中に残しながら胃の府におさまったしばらくあと、じわ、と遅れて優しい酔いがやってくる仕掛け。文句なく美味い。多くのデパ地下で見かける買い求めやすさだって大きな魅力だ。
ああ…でも私は、この酒とともに心中する覚悟を決められなかった甲斐性なしです。もうすこしだけ、他の酒を見てみたい…今はただただ、そんな気持ちなのです・・(何の話だよ
株式会社佐浦 純米吟醸 浦霞禅
都道府県:宮城県
原料米:トヨニシキ、山田錦
精米歩合:50%
日本酒度:+2.0 酸度:1.4
アルコール度数:15.0~16.0
酵母:浦霞酵母
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