日記・コラム・つぶやき

世界が歪む

以下に記す話の舞台となった坂道を、日中に撮影。
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先月のとある金曜日。深夜0時近くに勤務先を出た私は冷たい雨のそぼ降る中、駅までの道のりを歩いていた。手がけるプロジェクトが年末進行に突入し、その週はずっと終電帰りだったせいか、特に眼の疲労を強く感じていた。私は近眼かつ強度の乱視で、コンタクトではなく眼鏡を愛用している。駅までの道半ばにある急峻な下り坂の手前で一旦立ち止まり、眼鏡を外し弦を口にくわえ瞼のあたりをぎゅっ、と二度ほど押しこんだ。濡れた路面の薄暗い下り坂、に対して疲れた身体のおこなう無意識の構えである。あたりの風景が一瞬霞んだあと、視界がじわじわと戻ってきた。よし先を急ごう、と足を踏み出した瞬間、私は戦慄した。

坂の下のほうから、ディパックを背負ってロボットのようなぎこちなさで歩いてくる人がいた。足を引きずっているわけでもなく、右手と右足、左手と左足を同時に前へ出して歩いているわけでもない。ただ、どことなく作りものっぽい所作なのである。あわてて眼鏡をかけ、矯正された視力で顔のあたりに焦点を合わせると、顔が無いのだ。正しく言うと、顔があるべき場所が、漆黒の髪に覆われているのだ。顔を覆うほどの長髪がかぶさってしまっているのではない、ごくふつうの長さであるにもかかわらず、だ。

これは一体何だ。

私の中の論理的な部分は瞬時に「見まちがいだろ。そうに違いない」と判断を下すのだが、しかし坂道の上で一歩も動けずにいる私に向かい、まるで地上の重力が10倍になってしまったかのようなぎくしゃくした動きで歩いてくる”それ”は、真っ黒な表情(とでも言えばいいいのか!)を変えないまま10m、5m、と坂を上り、確実に近づいてくる。とぎれとぎれの街灯の下で、より鮮明に浮かび上がった瞬間をとらえてみても、見まちがいではない。やはり顔のあるべき部分は髪に覆われている。あまりにあまりなものの出来に、思考が完全停止…する瀬戸際で、私はそのものの正体を見破った。

「ディパックを前に(背中側でなく腹側に)背負い、後ろ向きに坂道を上ってくる人」

…すれ違いざま「ちょ!!!!死ぬほど驚いたじゃねえかよ!!!!!」と脳内で罵りつつも、小説『新耳袋』や

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漫画『不安の種』、

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または2ちゃんねるのオカルト版スレッド「不可解な体験、謎な話~enigma~」(まとめサイト)に多くみられる、異世界を強く感じさせる話が好みの私にとってはこの上なく素敵な体験であった。いやー興奮してドーパミンが出まくったわ…

…ところで、夜の坂道をわざわざディパックを逆に背負って後ろ向きに歩くことには、どんな意味があるんでしょうかね?

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機内での安全のために

ふだん、国内出張時の航空機会社はマイレージ等の関係によりANAを利用することが多い。しかし行き先によってはJALを利用するときもある。

JAL利用時の楽しみは、シートベルトおよび救命胴衣の着用方法・非常設備・緊急時の脱出動作を説明する映像「機内での安全のために」を鑑賞することだ。全編CGのムービーが何ともすばらしい出来。ライバル社のものとは「飽きさせない工夫」において学生の自主映画とハリウッド映画くらいの差がある。編集テンポ、カメラアングル、カメラワーク、SE(効果音)の効かせかた等々、手練れの監督が作ってるな…と毎回感心してしまう。見どころは「機内から脱出した際には速やかに機体から離れましょう」のくだり。ロング(引き画)で捉えた機体、そこから逃げ惑う人々をカメラは滑らかに回りこみつつ映し出す。これ必見です。

下記リンク先でも閲覧可能ではあるけれど、SEの音量レベルが低い点に不満が残る。やはり機内で聴診器風イヤホンを装着して視聴するのが雰囲気だろう。

「機内での安全のために」

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牛への道

タイトルは宮沢章夫のエッセイで、電車の中では危険すぎて読めない名作(やってみればわかる)なのだが、今回は書籍の感想文をしたためるのではなく、以下のニュースを読んで思い出した昔語りをしてみたい。

6月27日午前3時35分ごろ、前橋市宮地町の主要地方道で、市内のトラック運転手の男性(37)の大型トラックが道路の中央を歩いていた牛と衝突、さらに隣の車線を走っていた群馬県安中市の男性会社員(42)の乗用車も牛にぶつかった。2人にけがはなく、牛は南方へ去った。前橋東署の調べでは、現場は片側2車線で、周囲には牛舎が点在している田園地帯。飼い主は見つかっていない。牛は黒っぽい成牛だったという。(産経ニュース)

2人に怪我がなくてなによりだし、「牛は南方へ去った。」の一文も味わい深い。ところで私も大学生の頃、牛との奇妙な遭遇を果たしたことがあった。

16、7年ほど前の昼下がり。交通量の多い国道沿いにある吉野家にて友人とふたり、がつがつと牛丼をかきこんでいたその時、窓の外を一頭の牛が凄い勢いで走り去っていくのが見えた。店内の客と店員の「あれは何や!」「牛や!」とする叫びを聞くが早いか、友人と二人外へ飛び出し牛の後を追った。そこかしこから集まる野次馬の情報を総合すると、牛は事故により横転したトラックから脱走したようで、国道を爆走した末に吉野家から200mほど離れた泥田の中で地元猟友会の面々により銃声一発、天に召されたのだった。

そこまでを見届け、なんか切ないよね、と友人とふたり声を合わせたとき、私たちは吉野家の勘定を済ませていないことに気づいた。いけね!と店に戻ってみると、客は誰もおらず、私と友人の食べ残しもそのままであった。店をほっぽり出し、牛ギャラリーと化していたと推測される店員も、どことなく呆然としていた。私と友人は、何とはなしに味のしない冷たい牛丼をひと口ふた口含んだのち「ごちそうさま」と勘定を済ませてから、改めて店を後にしたのだった。

話はここで終わらない。マリー・セレスト号事件をご存知だろうか。1872年12月4日、アゾレス諸島とポルトガルの中間点付近の海域で、マリー・セレスト号が無人の漂流船となって発見され、同船を捜索したところ食事の用意もそのままに、乗組員だけが忽然と消失していた事件である。幼いころ『世界の七不思議』の類の書籍でこの事件を知ってからこのかた、私の脳裏には

「うわあああああああああ」

と叫びつつ、船の中へ居ながらにして下半身から霧に溶けてゆく乗務員たちのイメージが深く刻み付けられてしまっていた。

しかし、吉野家で牛と遭遇した数十分後。店に戻り、未だ自らの食い散らかした牛丼が遺跡のごとく残されているのを見た瞬間、マリー・セレスト号の一件に新たなイメージが加わった。すなわち「食事より興味深いできごとに引きずられ、全員下船した」というもの。ウルトラQの名作「2020年の挑戦」にも登場する、下半身から消えてゆくイメージからは一歩踏み出した感がある。

でも彼らは、海上で何に興味を惹かれたのであろうか。もしかして牛か。私と友人が乗組員であったなら、食事を放り出して船を下りることは火を見るよりも明らかだ。

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連想 -パラフィンとビニール-

岩波文庫。

学生の時分に講義で使うテキストとしては馴染み深い存在であっても、趣味の読書用途として縁遠かったのだが、坂口謹一郎著『日本の酒』を読んでようやく一歩お近づきに。この本、初版が1964年であるのに、現代の日本酒業界にとって「よげんの書(@20世紀少年)」たりうる内容である。なにより冒頭の口上がいい。

日本の酒は、日本人が古い大昔から育て上げてきた一大芸術的創作であり、またこれを造る技術の方から見れば、古い社会における最大の化学工業の一つであるといえる。したがって古い時代の日本の科学も技術も、全部この中に打ちこまれているわけであるから、日本人の科学する能力やその限界も、またその特徴もすべて、この古い伝統ある技術をつぶさに調べることによってうかがい知ることができるであろう。(12頁)

真正面からの清冽なもの言いに、どこか日本人としての郷愁を呼び覚まされてしまう。郷愁といえば、昔の岩波文庫はパラフィン紙に覆われていた。私の祖父の弟というのが古典文学の愛好家で、私が幼い頃よく出入りしていた部屋に年季の入った船箪笥が置かれており、その上にパラフィンに包まれた背表紙がずらっと並んでいたのだった。背表紙の読めない幼い私ではあったが、赤茶けた色調とパラフィンの質感とが相俟って、それらが古き良き書物であることだけは伝わってきたものだ。

日本酒がらみの話題でもうひとつ。いまのところの日本酒に対するスタンスは「分析的にあれこれ種類を呑み、自分の好む味を確立しつつ、長く付き合える銘柄を見つける」というもの。それゆえ、酒器は国税庁の鑑定会で使用される一合利き猪口を愛用している。

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飲み手を味に集中させるべく縁が薄くなっており、酒の濁りの有無、色や照りの良し悪しを判定するために描かれた藍色の蛇の目模様もデザイン的に気に入っている。しかしまた同時に、すでに「お気に入り登録」を済ませた酒は、しゃれた酒器に注いで味わってみたい、とも考えはじめてしまった。

そんな思いを胸に書店をぶらつき、購入したのがこちら。

◆保育社カラーブックス『ぐいのみ』
http://www.ebookjapan.jp/shop/title.asp?titleid=942&genreid=10007
◆保育社カラーブックス『そばちょこ』
http://www.ebookjapan.jp/shop/title.asp?titleid=937&genreid=10007

保育社カラーブックスといえば、現在流通しているものは通常の文庫本と変わりない装丁だが、以前は横線で凹凸のついたビニールカバーに覆われていた。私の育った実家および頻繁に出入りしていた親戚の家の書架には、鈍く光るビニールの背表紙を見つけることが多かった。インターネットのなかった時代には、「趣味へと発展する予兆を孕んだ何か気になること」について調べようと思い立つと、書店に赴き、保育社のカラーブックスを手に取ることが多かったのではないか。

カラーブックスは、上のリンクにもあるとおり電子書籍として購入が可能である。何か気になることができたなら、Google検索ですべてを済ませてしまわず、こちらにあたってみるのもまた一興か。

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福居伸宏 展

火曜日、清澄白河に福居伸宏展を見に行く。

http://www.tokyoartbeat.com/event/2008/1320

瞬間、作品から受ける印象は、隅々まできているピントのためか、すごく静的なものである。しかしその構図は、移動の途中にふと立ち止まったかのごとく、次なる始動の気配に満ちている。静的だけど動的、そんな矛盾が無矛盾的に成立してしまっているため、都市生活者にとってきわめて見慣れた風景を撮影対象としていながらも、異界感に深く浸れて心地よかった。

ところで。作品にあらわれる都市は、関東北部の地方都市に生まれ、将来は東京で暮らすんだろうな、という茫漠とした予感を抱き続けて育ち、結果そうなった私の、ずっと憧れてきた風景である。ずっと?

そう、ずっと。古くは、帰ってきたウルトラマン、本多猪四郎監督回のモブ・シーン。押井守演出の、うる星やつらにおける友引町、機動警察パトレイバー2での東京。そのへんの描写から都市への憧れを育てていたように思うが、人間の記憶は事後的に編纂可能なものであるから、今、宣言しておこうと思う。

私の、幼いころからの都市への憧れは、ここ(*)にある風景によって醸成されてきたのだ。

(*)
http://www.nobuhiro-fukui.com/

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